鍵物語・일본어열쇠이야기

日本在住の韓国人と日本人のための「和얼」Jeremy's Cafe

8月1日. 2019

これからの、人生所感

今までの人生は不自由な足のため、人の3倍走り続けて来ました。

人の3倍足の速度が、遅かったから。

走り続けて来た人生でした。

今回、2019年6月28日8時.本当の自分の誕生日に。

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去年夏修養会で神様に、新たに出会うことができました。

マルコ福音書11章22節 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

人生には様々な問題が起きます。他人のせいであろうが、自分のせいであろうが。

予期せぬさまざまな人生の問題やトラブル、苦難、叫び狂いたいことが起きます。

もちろん、人生にはときには飛び跳ねるほどの喜びや感謝、嬉しさ、ありがたいことも起きます。

そんな人生に起きる様々な問題や迷い、選択の分かれ道の中、悩み苦しみ迷います。

そのとき、答えが何か、正解が何かを探し続けます。

そんな私たちにイエス様は答えて言われました。「神を信じなさい。

そうです。人生におけるすべての答えは、神様を信じることにあるのです。

私たちを創造し、永遠の救いを与えるために御子イエス様を与えてくださった私たちの主である神様だけを信じて生きること、その結果がどのようになろうとも、その過程にどんなことが起きようとも、たた、神様だけを信じて生きることこそがすべてにおける答えであると、イエス様は教えてくださいました。

 

私はこの10年間、言葉に表せない辱め、不信仰、悩み、不安、苦しみ、迷いの時間を過ごしました。私が知っている神様は不可能なことが何一つない方です。

私の人生そのものがそれを証明しています。母の胎内から選ばられ、生まれてから書ききれないほどの全能の神様の一方的な御力によって導かれてきました。神様がみせてくださったそのたくさんの奇跡、不思議な力、時間も人の心もこの世のすべてを用いて、導いてくださった神様。全能の神様が私の神様でした。

しかし、10年前、神様の奇跡のような仕事の体験の後、私はそのとき、新たに神様に出会い、主との関係を新たなに結ぶべきでした。しかし、私は、その時までの祝福の神様過去の、経験からの神様を頼りに始めた事業の失敗で、同労者を始め、多くの人々を苦しめられてしまい、悲しみと辱めと不信仰と悩みと迷いの10年を過ごしました。

 

そして、去年、マタイ福音書の11章22節の御言葉によって、10年間のすべての悩み、苦しみ、迷いがなくなりました。改めて、主に出会ったのです。

7年間勤めていた会社の中で、主に叫びました。そして、私は転職をしました。

 

そして、この6か月、全く新しい分野の中で、奇跡のような日々を過ごしました。一日一日の中、主である神様はありとあらゆる面でともにしてくださり、導き、私の力では到底できない、主の一方的な奇跡で導いて下さいました。

 

そして、ある日突然、6か月目が終わるその日、2019年6月28日8時.本当の自分の誕生日に。まるで、突風で行きなり陸地にすわらせているようでした。

 

今、私は、今年の御言葉、この6か月毎日、読み続け、黙想し続け、祈り続けた御言葉の前にいます。

 

マタイ福音書 11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

この6か月間の御言葉を黙想し、そして、今回のことで、主が私に悟らせてくださったことがあります。

 

罪人である私たちが、神様を知ることはできません。滅びるべき罪人が、神様を知ることは全く不可能です。神様を知らないとき、私たちは滅びしかありません。永遠の死と裁きしかないです。神様を知らない人は救いがない人生を生きるしかないので、すべての人が、すべてにおいて、疲れてしまい、人生の重荷、死の重荷を負って生きるしかありません。その人生にはまことの休み、安らぎはありません。

そのために、イエス様はどんな人でも受け入れてくださる優しい、へりくだったイエス様、御子でありながら、罪人のところに、人間の体でこの罪深い世に来られたイエス様がこう言われました。「11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

神様を知るためには、罪人である私たちとしては、仲介者であるイエス様が必ず必要です。罪人で永遠の裁きを受けている私たちが神様のところに行って神様のことを知ることはできません。神様に近づくことはできません。

私たちには仲介者が必要です。聖なる神様との和解をしてくださる仲介者であるイエス様が必要です。

 

この仲介者であるイエス様によりのみ、神様を知ることができます。

神様を知るとき、神様を知るためにイエス様のところに行くとき、イエス様が与えてくださる真の安らぎを得ることができます。

では、私たちはどのようにして、神様を知ることができますか。イエス様のところに行くこととは何でしょうか。

 

11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

くびきはイエス様が先に負ってくださり、そのすぐ後ろでイエス様の一体化されたくびきを負って、イエス様がどうされるのかを学びながら、進めていくことです。イエス様がどんな方なのか、イエス様がどのように考えておられるのか、イエス様はどう考え、どう行動し、どう生きておられたのか、その人生の目的は何だったのかを、イエス様の同じくびきを負って、毎日毎日学んでいくとき、イエス様のところにいくことになります。イエス様と一緒にいることになります。すると、たましいにやすらぎが来ます。たましいの救いが与えられるのです。

 

今までの10年間は、全能の神様がなぜさせたのか、すごく悩み、不信仰に苦しめられ、真っ暗闇の中にいました。ところが、去年のマタイ福音書11章22節の御言葉で、イエス様の御言葉を通して、すべてにおいて、神様を信じることが道であることを悟ることができました。イエス様が見えてきました。

 

神様を知る道を知らず、イエス様のことが見えず、真っ暗闇で苦しんでいたこの10年間でしたが、やっとイエス様の御言葉一言が私のこころに訪れ、私に光を与え、いのちの道を教えてくださいました。

これから私が、真っ暗闇の罪人の座から、起き上がり、まことの仲介者である、道であり、いのちであり、真理であるイエス様と一緒に、イエス様のくびきを負い、イエス様を学び、イエス様とともに生きる、イエス様のように他の人たちを、神様に導くものとなりますように祈ります。

 

今回のことで、ひどく悩みました。この事件を通して、わたしは渡利先生を仲介者として立ってもらいました。神様を信じる自分が、この世の中の法的手段で問題を解決していいのかどうか、ひどく悩みました。

 

しかし、仲介者であるイエス様のことを、忘れないようにするため、

一つの出来事として、ずっとずっと忘れないために、仲介者を立てることにしました。

アブラハムが、ヤコブが祭壇を築き、記憶することをしたように。

これからわたしが、仲介者であるイエス様のことを忘れず、ずっとこれを記憶することを祈ります。

 

これから私がイエス様と一緒に、イエス様のところにいき、イエス様のくびきを一緒に負って、イエス様から学ぶことができるように祈ります。

まことの仲介者であるイエス様から学び、話し合い、一緒に神様を知る道を歩むことができるように祈ります。

自分だけではなく、私の後ろについてくる一人ひとりも、まことの仲介者であるイエス様のところに導き、イエス様のくびきを負う者として、導くことができるように祈ります。

 

 

 

そして、32章のヤコブのように、神様に出会い、イエス様に出会い、神様を知る、イエス様を知ることができるように祈ります。

そして、33章のヤコブのように、

33 14 あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」

33 17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。

 

私についてくる一人ひとりを、ゆっくり、彼らのことを考えながら、イエス様のことを考えながら、生きることができるように祈ります。

そして、神様が祝福してくださった自分の人生のために、家を建て、そこで、主のための祝福が、主の約束の御言葉が豊かに実を結ぶように祈ります。

 

 

ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

32 28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

32 29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。

32 30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

 

 

 

33 3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。

 

33 10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。

33 11 どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。

33 12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう。」と言うと、

33 13 ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。

33 14 あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」

33 17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。

33 18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。

33 19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。

33 20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。