鍵物語・일본어열쇠이야기

日本在住の韓国人と日本人のための「和얼」Jeremy's Cafe

マタイの福音書26:1-16

マタイの福音書26:1-16

26:1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

7節の女性は、イエス様が十字架のことを言われたとき、
あ。イエス様は死ぬんだと、受け入れたのです。

26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

すると、弟子たちは何のために、こんな無駄なことをするのか。
この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのにと言いました。

十字架につけられるというのは、死ぬことを意味します。
弟子たちはイエス様が死なれるということを受け入れられませんでした。
受け入れたくないでしょう。

だから、弟子たちは彼女のやったことが無駄だと思いました。
生きている人に非常に高価な香油を注ぐのは、本当に無駄です。

しかし、人は自分の愛する人の死の前では、どんなに高価なものであっても
惜しまずに使います。

エス様のみことばを自分の都合で受け入れたり、解釈しないで、
みことばそのままを素直に受け入れるかどうかは、
その後の行動でよく表れます。

私たちが主のみことばを素直に受け入れ、行動する一日となりますように祈ります。

マタイの福音書25:31-46

マタイの福音書25:31-46

25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

最も小さい者たちの一人にしたことをご覧になる神様はどんな方でしょうか。
なぜ、神様は最も小さな者たちの一人にしたことをもっとも大事なこととして
ご覧になるのでしょうか。

25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

この世は、死んだら終わりという考え方を持っているため、
最も大きいことから、目にみえやすい、結果が出やすいことだけでも
限られた人生の時間の中で成すことができるかどうかわかりません。
だから、結果が出やすい、目にみえやすい、もっとも大きいことが重要です。

しかし、神様は永遠の神様です。その神様を信じるものは永遠のいのちが与えられます。
その神の永遠性の中で、ものごとをみると、
神様、神様の願っておられることより大切なことはなく、
限界のあるこの世の物差し、基準で、神様の御心を測ることはできません。

永遠のいのちを与える神様の御心、視野と観点、価値観でみると、
一人の最も小さな者は、とても大切な者の一人なのです。

私たちが、今日も永遠のいのちを与えてくださる神様の
御心、視野と観点、価値観をもって、
この世では無視されやすい小さなものごとをも
大切にして生きることができるように祈ります。

マタイの福音書25:14-30

マタイの福音書25:14-30
25:14  天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
          するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。
          おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。

自分のしもべたちに自分の財産を預ける人の心を考えてみましょう。
そのしもべたちを信頼する心がないと、自分の財産は預けられません。
その人の能力に応じて、各々タラントを渡しますが、
五タラントのしもべも、一タラントのしもべも、主人が彼らを信頼していることには変りはありません。

信頼は片方だけでは成立しません。
信頼関係は、両者が互いに信頼することが必要です。

五タラントのしもべは、主人のことを信頼しました。
その現れが、15節後半、「 するとすぐに、」という言葉からわかります。
一タラントのしもべは、主人のことを信頼せず、恐れていました。
25節の前半です。「それで私は怖くなり、」

神様は私たちを創造されたとき、少なからずタラントを与えてくださいました。
与えてくださったということは、主は私たちのことを信頼してくださっておられるのです。
私たちも主を信頼するときには、迷わず行動します。
しかし、主を恐れ、主を信頼できないときは、迷いながら、与えられたタラントを使わず、
無駄にしてしまいます。

私たちが今日一日、主を信頼して、恐れず、迷わず、行動する一日を過ごすことを祈ります。

詩篇82:1-8

詩篇82:1-8

82:8  神よ 立ち上がって 地をさばいてください。
 あなたが すべての国々を
 ご自分のものとしておられるからです。

さばくためには、主権が必要です。
そして、もう一つ必要なことがあります。
それは、その主権の実際の権威が効いていないと意味がありません。
主権の権威が実行され、実際の力を持つためには、
主が生きておられることが第一条件です。

主が立ち上がり、さばきを下すことを祈る者は、
その主が生きておられることを信じなければなりません。
実際の私たちの人生、今日の一日に
実際生きておられる神様が、その力とさばきとをもって、
力を、権威を振っておられることを
信じなければなりません。

私たちが今日も、生きておられる神様を信じ、
私たちの生活に実際働いておられる神様を体験する
一日となりますように祈ります。

詩篇78:40-72

詩篇78:40-72

78:52  神は ご自分の民を羊の群れのように連れ出し
 家畜の群れのように 荒野の中を連れて行かれた。
78:53  神が安らかに導かれたので 彼らは恐れなかった。
 しかし彼らの敵は 海がおおい隠した。
78:54  こうして神は 彼らをご自分の聖なる国に
 右の御手で造ったこの山に 連れて来られた。
78:55  また 彼らの前から異邦の民を追い出し
 その地を相続の地として彼らに分け与え
 イスラエル諸族を それぞれの天幕に住まわせた。


ある国の王の栄光、その力、その偉大さは
その国、その国の民がどれほど強いかによります。
その国に暮らす民たちの教育水準をはじめ、
先進国としての文化、教養、規範を守る、経済力、軍事力など
その国の民と直結しています。

神はこの世を創造し、万物の主の主です。
この神様の民はどれほど、
偉大な、勇敢で、力と知恵と規律と教養のある民でしょうか。

神様はご自分の栄光、その力、その偉大さを表すための民として
どれほど、すばらしい民を選んだでしょうか。

神様はイスラエル民をお選びになりました。
ライオンのように勇敢でもなく、狐のように賢くもなく、
熊のように力があるわけでもなく、鹿のように品があるわけでもない、

エジプトの奴隷だった民、
羊群れのように弱くて、すぐ恐れ座り込む、
何も持っていない飼い主のいない荒野の羊たちのように
逃げ出した、痩せぼそく、すぐにでも死んでしまいそうな、
敵の攻撃に何の対抗手段も持ていない、ただ殺されるしかない
そんな羊群れを、
神様はご自分の民とされました。

なぜでしょうか。
78:54  こうして神は 彼らをご自分の聖なる国に
 右の御手で造ったこの山に 連れて来られた。
78:55  また 彼らの前から異邦の民を追い出し
 その地を相続の地として彼らに分け与え
 イスラエル諸族を それぞれの天幕に住まわせた。

そんなイスラエル民を、ご自分の聖なる国の民、
海がおおい隠すほどの数の異邦の強力な敵たちを追い出し、
その血を相続の地として分け与えることで、
主である神様の栄光が、その力と知恵とが
どれほど偉大なのかを表します。

何よりも、その荒野の羊群れの中に、
一緒に住まわれてくださいます。
強さだけではなく、
その神様の恵みとあわれみ深さ、忍耐と柔和と愛をも
表してくださいました。

この神様が、弱い羊群れのような私たちと、
今日もともにおられ、私たちの敵を追い出し、
愛と恵みとあわれみ、忍耐と柔和、愛をもって
私たちの中にともに住まわれます。

今日もこの主の民として
主を忘れず、感謝し、ともに生きる一日を過ごすように祈ります。

詩篇78:1-39

詩篇78:1-39

78:4  それを私たちは 息子たちに隠さず
 後の時代に語り告げよう。
 【主】の誉れを
 主が行われた 力ある奇しいみわざを。

78:7  彼らが神に信頼し
 神のみわざを忘れず
 その命令を守るために。

親の先祖たちが生きていた時代や
親が生きて来た時代と、
これから子が生きていく時代は違います。

時代が違ったら、
必要なもの、身に着けるべきこと、
価値観、生き方、生活も違います。

特に現代は、時代の変化が激しいのです。

では先祖や親が、子に伝えられることは何でしょうか。
それは、【主】です。
主が行われた 力ある奇しい御わざです。

なぜでしょうか。
それは、主こそが、
先祖の時代にも、親の時代にも、子の時代にも、
そして、その子の子の時代にも、
生きておられ、その御力をもって、奇しいみわざで、
人々の中で、時代の中で働いておられるからです。

私たちが伝えられるのは、
ただ【主】のみです。

今日も主を思い、主のみことばをもって
主を伝える、主と一緒に生きる
一日となりますように祈ります。

コリント人への手紙第二7:2-16

コリント人への手紙第二7:2-16
7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。
7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

この世で様々な悲しみがあります。
大きな悲しみもあれば、楽しみにしていた冷蔵庫のアイスをたれかが食べてしまったような小さな悲しみもあります。
この世の様々な悲しみがあるように、信仰生活することで感じる悲しみもあります。

悲しみとは、何かに由来してこみあげて来る感情です。
ところが、今日のみことば、
7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
悲しみには結果が生じることを教えています。

悲しみは悲しみで終わりません。
悲しみには、その結果を生じさせます。

神様のみこころに添った悲しみには、悔い改めを生じさせると教えています。
世に添った悲しみには、死をもたらすと教えています。

神様のみこころに添った悲しみとは、神様のみことばに従おうとするとき、
この世を生きている私たちが、この世の考え方や価値観、慣習に逆らうことで生じる
悲しみです。不安と恐れからくる悲しみです。

でも、聖書はこう言っています。
神様のみこころに添った悲しみは、悔い改めを生じさせると。
それは悔い改めによる永遠のいのちが得られることです。

私たちが、今の自分が、何によって悲しんでいるのか。
主のために悲しむものとして、今日一日を生きるように祈ります。