鍵物語・일본어열쇠이야기

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コリント人への手紙第二4:7-18

コリント人への手紙第二4:7-18

4:7  私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:16  ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

今日は、本文をじっくり読んでみましょう。
イエス・キリストを信じることは、苦労がなくなることではありません。
途方にくれないこと、迫害されること、倒されないことを約束されたのではなく、

窮すること、行き詰まること、見捨てられること、滅ばないことが約束されています。

御子イエス・キリストは、十字架による死がないと言われておりません。
十字架による死から、よみがえられることを約束され、
エス様は十字架で死なれましたが、死者の中からよみがえられ、
私たちのいのちの主となられました。

私たちが信じる信仰は苦労がないのではなく、報いがあることが約束されています。
迫害され、見捨てられ、倒されますが、蘇りが、いのちが約束されています。

今日もこのイエス・キリストによるよみがえりの約束を信じて生きる一日となりますように祈ります。

コリント人への手紙第二3:7-18

https://ubf.or.jp/dailybreadtoday/?date=20211020
コリント人への手紙第二3:7-18

3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。


私たちがこの世で一所懸命何かをやるとき、それはそのやることに対する栄光を受けるためです。
学生が熱心に勉強するのは、良い成績を得るという喜びと栄光を受けるためであり、
働く人が一所懸命働くのは、その代償である給料をもらうためにもありますが、
その仕事を成功させることで、得られる満足感と栄光を得るためでもあります。

聖書は、律法のことを石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものだと言っています。
律法は神様がイスラエル民が罪と死の支配に入らず、一所懸命律法を守り、神様から離れないようにするために与えられました。
しかし、イスラエル民はその律法に縛られてしまい、律法を守ることばかり、表面的なことばかりに縛られました。

仕事も勉強も同じです。
文字通りのことに縛られ、勉強しなくちゃ、仕事しなくちゃという社会の律法に捕らわれやすいです。
すると、そこには、律法にとらわれたイスラエル民のように、喜びも満足感もありません。
ただ、やっているだけ、死に仕えるような務めの仕方しかできないのです。

3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

御霊は、目に見えない方です。私たちの心の中に臨まれる方です。
この方に仕えるのは、心から進んで仕えることです。
自発的な務めとなります。そのとき、喜びも満足感も感謝も生まれて来ます。
その自発的な務めによる栄光は、どれだけ、輝かしいものでしょうか。

私たちが今日も祈りと感謝と喜びをもって、福音を信じたものとして、
御霊に仕える務め、自発的に進んで主のために、勉強し、仕事をする一日となりますように祈ります。

レビ記16:1-34


レビ記16:1-34

16:30 この日は、あなたがたをきよめようと、あなたがたのために宥めが行われるからである。あなたがたは【主】の前ですべての罪からきよくなる。

アロンの二人の息子は、主の命じられた火とは異なる火を祭壇に
付けることで、その場で死にました。
アロンは、自分の教育の足りなさ、二人の息子を失った悲しみ、
何よりも、これから少しでも間違ってしまったら、
即、死んでしまうことへの恐れがあったでしょう。

自分自身も含め、残りの二人の息子も、また祭司職のアロン家系のだれもが、
主への恐れ、自分がちょっとしたミスに対する死の恐怖があったと思います。
この世に、主に仕えるとき、完璧に行う人はいるだろうか。
自分も、残りの息子も、自分の家系の子ら、だれ一人、
罪のない人は、この世に誰もいないので、すべて死んでしまい、
誰がこの祭司職に就くのでしょうと思ったと思います。

そんなとき、神様はなんと言われましたか。

「16:30 この日は、あなたがたをきよめようと、あなたがたのために宥めが行われるからである。あなたがたは【主】の前ですべての罪からきよくなる。」

罪の赦しの道を用意してくださいました。
罪人であるアロンとその息子、その子ら、そして私たちに、
主に仕える道を用意してくださいました。
主の命じられたとおりに祭司を行い、そして罪を犯したとき、
主の命じられたとおりに、宥めを行うことです。

どんな罪人でも、イエス・キリストの宥めによって、
主に仕える者となったのです。
この主の御恵みに感謝する一日を過ごしましょう。

 

 

レビ記 7:11-21

レビ記 7:11-21

7:13 感謝のための交わりのいけにえと一緒に、種入りの輪形パンを献げる。
7:14 そして、それぞれのささげ物から一つずつを取り、【主】への奉納物として献げる。これは、交わりのいけにえの血を振りかける祭司のものとなる。
7:15 感謝のための交わりのいけにえの肉は、それが献げられるその日に食べ、少しでも朝まで残しておいてはならない。

 

今日は、主に感謝のための交わりのいけにえを献げることについてです。
主である神様、聖なる神様に感謝をささげることにおいて、

14節、主に感謝するときには、ふんわりとではなく、一つずつ具体的に言うべきです。
その感謝は、神様とその御子であり私たちの大祭司であるイエス・キリストに返すべきです。

15節、主に感謝するときには、自分の範疇の中で献げるべきです。
人に見せるためや、自己誇示のため、つまり、人の前ではなく、
その感謝が小さなものであろうが、大きなことであろうが、
主と自分との交わりの中で、感謝を献げることが重要です。

主への感謝は、その日その日、感謝することが大事ですね。

神様は、私たちにその日その日に必要なものを満たしてくださる方です。
主への感謝も、その日、その日、神様に伝えることもすごく大事だと思います。

それによって、主との交わりが日を増して、深くなるものだと思います。

主は心をご覧になる方です。
今日も私たちが心から主に感謝をささげる一日、
一つずつ具体的に考え、感謝する日となりますように祈ります。

ゼパニヤ書2:1-15

ゼパニヤ書2:1-15
3 すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。

2:13 主は手を北に向けて伸ばし、アッシリアを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし、砂漠とされる。
2:14 その中に、獣の群れが、あらゆる地の獣が伏す。ふくろうと針ねずみは、その柱頭をねぐらとし、その鳴き声は窓に響き渡り、荒廃は敷居に及ぶ。まことに、その杉材が?がされる。
2:15 これが、安心して過ごし、「私だけは特別だ」と心の中で言っていた、あのおごった都だ。ああ、その都は荒れ果て、動物の伏す所となる。そこを通り過ぎる者はみな、嘲って手を振る。

今日のゼパニヤ書は、少し歴史的知識が必要です。
時代背景としては、世界最初の帝国アッシリアイスラエルからエジプトまで支配していた時代でした。
アッシリアは武力と暴力で植民地を支配していました。
その残酷な圧政に、イスラエルも非常に苦しんでいました。
イスラエル指導者たちは、アッシリヤの方針に従って
民たちを残酷な圧政をしていました。
イスラエル民はその暴力と残酷さに影響を受け、
生き残るために、他人に暴力と残酷な行いをして生き延びているでしょう。
そして、ヒゼキヤ王の宗教改革にもかかわらず、
残酷な現実から逃避し、天文の神々・星占いなど様々な偶像崇拝に走りました。

そんなイスラエルに、神様は今日の御言葉で二つを言われました。
一つは、イスラエル指導者たちに、アッシリアのような暴力と残酷さを捨てて、
神のさばきを信じ、柔和で民を治めることを強く言われました。
二つ目は、アッシリアは今は世界最初の帝国の威勢をもって
「私だけは特別だ」と言っていますが、アッシリアは必ず滅びることを、
だから、イスラエルの民たちに、主のもとに戻ることを言っておられます。

私たちはコロナで苦しんで先が見えない社会状況や今の自分の現実など、
目に見えている世界しか見ない時があります。
そのとき、私たちは現実から逃げたいと思ったりします。
この世の影響を受けやすく、暴力と残酷な行いを見習いやすいです。

しかし、主を信じる者は、この世に見習わず、
暴力と残酷の世の中で、柔和で生きるべきです。
するとき、そのアッシリアを主がさばき、滅ぼしてくださいます。

そのような生き方は中々難しいですが、
この主を信じて生きるとき、私たちの生活、人生は
主が生きておられることを身をもって知るようになります。

今日も私たちが主を信じて、主に従い、
柔和の者として生きることができるように祈ります。

詩篇64:1-10

詩篇64:1-10
ダビデの賛歌。
6彼らは不正を企み 「企んだ策略がうまくいった」 と言っています。 人の内なる思いと心とは 底が知れません。
7しかし神が彼らに矢を射掛けられるので 彼らは不意に傷つきます。
8彼らは自らの舌につまずきました。 彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります。
9こうして すべての人は恐れ 神のみわざを告げ知らせ そのなさったことを悟ります。

人の内なる思いと心は、「自分も自分のことをよく知らない」ということばがあるように、
人の罪の深さ、欲深さ、無知さは計り知れず、
人の弱さ、足りなさも、心と魂と体の痛みや苦しみ、悩みもまた、底知れぬものです。

サウロは自分と王国に忠誠を尽くしたダビデを嫉妬し、殺そうとしていて、
ダビデはいのちがらがらで、荒野に逃げ込み、底知れぬ痛みと悩みで苦しんでいます。

しかし、主はダビデをご覧になり、そして、不正を企むものをつまずかせます。
主は、矢を射かけられておられます。
矢を射掛けられるためには、ずっとその標的を見続けて、観察し続け、
いつ射るか、タイミングを見計らて居続けなければなりません。

神様はダビデを苦しめ、不正を企んでいる者を、ずっと見続けておられます。
それはダビデから目を離さず、見守っておられることです。

主は私たちの一日を、私たちの一年を、私たちの将来において、
目を離さず、ずっとずっと見もってくださいます。
私たちの敵をも見謀らい続けてくださいます。

その主の御わざを私たちをとおして告げ知らせることを願っておられます。
今日もこの神様に感謝する一日となりますように祈ります。

詩篇63:1-11

詩篇63:1-11(1)
63:2 私はあなたの力と栄光を見るためにこうして聖所であなたを仰ぎ見ています。

今、ダビデは、忠誠を果たしてきたサウロ王に、
嫉妬され、命を狙われ、荒野に追われている状況です。
なのに、彼は、こう言っています。
「こうして聖所であなたを仰ぎ見ています」
場所がどこであれ、どんな都合であれ、どんなに苦しんでいる状況であれ、
納得いかない、不安の状況であれ、

主を仰ぎ見ることを忘れず、
主に目を向け、主を信じている、その場所が
主がダビデとともにおられる。
主の臨在する聖所であることを、

ダビデは感謝しています。
私たちも今日一日主を仰ぎ見、主とともに歩むことで、
私たちとともにおられる主の聖所で
主を賛美する一日となりますように祈ります。